創作においてどれだけ自分の”ありのまま”を出すか〜私小説から歌詞〜

雑記

今回のブログは本当に雑記みたいな思っていることを書いていきます。

私の友人に小説を趣味で書いている人がいました。その友人が昔、私小説に対して批判的であったことを思い出してこの前ふと連絡をとってみました。

はじめに


なぜ急にそんなこと言い出したのかと言いますと、自分も音楽を作る上でちょいちょい思っていたのですが、創作において「どれだけ自分をそのまま出すべきか」ということです。どの分野の人が多かれ少なかれ思っていることなのではないのだろうかと思います。歌ものの話が一番直接的だと思うのですが、歌詞において抽象的な歌詞で聴き手に考えさせるものがいいとか、逆にストレートな歌詞が刺さるだとかです。なんとなくですが、昔の歌詞は想像させるような、抽象的な歌詞が多くて、最近は直接的な具体的な歌詞が流行りだという言説を耳にしがちなのですが、どうでしょうか。例えば井上陽水の歌詞は天才的だと多くの人が認めているでしょう、私も大好きです(全曲聴いているわけではありませんが)。ただ、いわゆる”最近の人”は意味不明などと切り捨てるかもしれません。逆にAdoの「うっせえわ」とか西野カナの「会いたくて」とかはストレートな歌詞と言えるでしょう。もちろんこのような曲も好きですし、キャッチーさ共感しやすさで言ったらやはりこういう歌詞になるでしょう。この他にも中高生にターゲットを絞った過激な歌詞やその世代のノスタルジーを誘う歌詞など具体性が刺さる歌詞は今のヒットチャートに載る曲に多いような気がします。

さて、元の趣味で小説を書いていた友人の話に戻ります。小説は音楽よりも遥かにこの「どこまで自分を出すか」問題に直面する分野だと思います。まず、連絡をとった段階ではまだ小説を書いているものだと思っていたのですが、やめたと言われました。その原因も元を辿ればこの問題に行き着くのですが、まずは彼の私小説に対する考えについて書きます。

初めに、昔は批判的だったと思っていたのですが、今改めて訊くとまたニュアンスの違う態度だと感じました。
ここで断っておきますが、ここで「私小説」という単語を多用していますが、厳密には本来の(1920年頃から流行し出した純文学的な)意味ではなく、広義の作者自身の経験や心理をそのままあるいはそれに基づいて書いている小説という意味で使っています。

友人との会話

さて、彼はまず「否定的だというか『気づき』だ」と語りました。「自分自身のことをもとに書いていると面白くなりやすいし、それは当たり前なのかもしれない、『コンビニ人間』『さらば』『花火』とか売れている作者の経験に基づいている作品は面白い。」
自分は『コンビニ人間』と『さらば』の冒頭しか読んだことがなかったので知ったような顔で頷いていましたが、なるほど『コンビニ人間』の作者の村田沙耶香氏は長くコンビニで働いていた経験があったとどこかで見たし、『さらば』の作者西加奈子氏は幼少期、イラン・テヘランで過ごしていたらしいです。

「人と違うことをしてきた人が自分に近い経験を書いていたものが売れている。」
なるほど、確かにこのような作品は圧倒的に人と違う経験で、『コンビニ人間』においては人と違う心理だと思いました。ただこの経験の特異性は自ら獲得しようとして得られる限界があるとも彼は言いました。

「経験に基づかない作者は取材を綿密に行うけど、素人には限界がある。」
なるほど…確かにいろんな小説を書く小説家のエッセイなどを読むと取材の話が度々出てくるような気がします。

「自分も自分をそのまま書く、もしくはスパイスを三杯くらい加えたら小説になるような人生を送りたかったが、なかなかそうはならなかった。」
私は彼のことを結構長い間知っていて、色々努力している姿を見ていますが、限界を見てしまったのか、と。気安く「そんなことはない」とか「それは残念だ」とか返せるアレではありませんでした。昔、彼の小説を読ませてもらいましたが、自分から見れば彼の独自の経験にスパイスを三杯くらい加えられた立派な小説だったと思いますが、やはり創る人の内部はアウトプットの作品だけでは測れない、見ることができないのかと改めて感じました。 この話で言うと、その人の人格と作品は分離して作品は楽しむべきという言説がアーティストのスキャンダルなどがあるたびTwitterなどで盛り上がることを思い出します。不祥事に対する抑止力など綺麗事だけで語ってはいけない部分も含んだ話ではあるとは思いますが、こと作品とその人の内部、人格というのはこの友人の話を聞いて分離して考えるべきなのではと思いました。

少し話がそれましたがが本題に戻ります。
こういう友人の話がある一方で、最近別のところから「自己を物語るというのは必ず虚構になる」という話を聞いて大変興味深いと感じました。例えば単なる自己紹介でも厳密には、例えばその人が20年生きてきたならば、”20年分そのまま”を伝えなければ自己紹介にはならない。現実には1分の自己紹介ならばかなり主観の入った”切り取り”が行われ、それは虚構でしかないという話です。こう考えれば、歌詞や小説はどれだけ自分を書いてもフィクションと言えるでしょう。

結局、結論と言えるようなものが出ず、というか出す必要もない問題なのかもしれませんが、「商売性」を考えなければ、創作は自由にやるものなので、まさにアーティスト次第で受け手はそれを純粋に楽しむことができれば良いとやんわりと思いました。

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